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以前シェリという映画を観て以下の点がすごくおもしろかった(映画自体とは無関係に)。
わたしの可愛い人-シェリ [DVD](ミシェル・ファイファー)
第一次世界大戦前ということは19世紀末に稼ぎまくった高級娼婦は、椿姫のような悲劇的な人もいただろうが、稼いだ金を元手に投資して富裕層におさまっているという点だ。
主人公の若いジゴロ(といって良いのだろうな。富裕な女性に美貌と男性性によって養われている青年)のシェリの母親は米国の石油会社に投資して超金持ちになって、同じく高級娼婦出身の男爵夫人(男爵夫人になるのが先だろう)などと優雅に投資の話に夢中になっている。シェリを養っているレアも同様に巨万の富を得ている。
なるほどブルジョワとはそういうものですか、と眼が開かれる思いをした(もちろん、そればかりではないだろうが、そういう道筋もあるという点についてだ)。日本でも明治の元勲の奥さんに芸者出身が多かったりするわけだから、そういう時代というものだろうが、投資で富裕層の仲間入りというのはあまり聞かないな。
で、先日神保町を歩いていたら「シェリの最後」という本が目について思わず買ってしまった。というか、ジゴロ坊やの最後なのだから自殺しかないだろうとは思ったわけだが、第一次世界大戦後という点に惹かれたのだった。
世界史で一番興味深いのは第一次世界大戦の前後における価値観の変化だから、興味を持たないわけがない。
それにしても、文章は見事なものだが、退屈極まりない。元々シェリ自身が美貌以外には中身が無い空虚な存在だから、その視点で描かれる物語がおもしろいわけもない。というわけで、退屈さの苦痛の中で読書を続けるわけだが、なんとことはない、それこそシェリが味わっている世界そのものであった。
第一次世界大戦があっても、アメリカはほとんど無傷どころか戦争需要があったからだろうが、シェリの母親はじめブルジョワ化した女性たちはさらに裕福になっている。
シェリは結婚していて、相手のエドナは女医なのだがその母親はシェリの母親の仲間の元高級娼婦現ブルジョワ。レアは激太りしていてシェリはうとましく思うのだが、レア自身はすっかり枯れてしまって別にシェリを今更どうこうしようとは少しも考えない。エドナ自身は病院のアメリカ人将校や医者と浮気をしまくっている。シェリは美しいが退屈だからだ。(作中、とうとうシェリはエドナに興味を持てなくなり、エドナもただ美しいだけのシェリから完全に心が離れてしまう)
元のジゴロ仲間やチンピラたちはそれぞれに適度な元手を増やして自分たちのビジネスをしていて楽しそうだ。
かくしてシェリにはどこにも居場所はない。金はうなるほど持っているのだが、何もやる気がない。戦争で目の前で友人が死ぬところを見ているのだが、それすらも過去のこととなっている。
そこでシェリはうろうろうろうろ巴里の街を彷徨う。しかし風景はすべて通り過ぎていくだけだ。
うろうろしているとみすぼらしい老婆を見かける。母親の友人のラ・コピーヌ(名前が同伴者なんだよなぁ)だ。彼女も元は高級娼婦なのかあるいはシャトーのマダムだったのかな? に出会う。うまく資本を回せなかったのか、落魄している。といっても貧民ではなく女中を雇って普通に生活している(それ以外の女性たちが極端に裕福なだけなので、シェリが貧乏くさいとか貧相と感じるのがえらく極端に上に寄っている)。
そこでラ・コピーヌの家に入り浸ることになり、レアの過去の話などを聞いて時を過ごす。
そして自殺する。
解説がやたらと長い。一点なるほどと思ったのは、エドナに関して、欧州は第一次世界大戦で男が出払ってしまったために女性がいやでも社会進出せざるを得なくなり、これにより意識が大きく変わったというような記述だ。なるほど、確かにエドナは自立した女性なので、シェリを見放すことができるのだな。その他の女性たち(シェリの母親ですら)自分たちの投資が社会に与える影響、情勢から受ける影響、そういったもろもろをすべて理解して大金を動かしている。
そこで不思議なのはなぜ1946年以降の日本ではそこまで意識をうまく変えることができなかったのだろうか? ということだ。もしかすると日清、日露、日中と矢継ぎ早に戦争しまくったせいで、本土に山ほど鮫島伝次郎の一派が残って社会の主導権を抑えていたからではなかろうか? 奇貨居くべきときに零れ落ちてしまったのだろう。
新国立劇場で日中友好40周年記念のメリーウィドウ。日本と秒あたりコマ数の方式が異なるのかなんか引っ掛かりがある映像だったが、中身はえらくおもしろかった。
原題(はもちろんメリーウィドウだが、中国国家大劇院の原題)が「風流寡婦」で「風流」にえらく魅力を感じる。しかも聞いてフーリューがわかって、なるほど風流はフーリューですなとえらくおもしろい。地の台詞の部分は中国語なのだ。
地の台詞が中国語なので、ポンテヴェドロの駐仏大使やニェグシュ、ブリオシュなどは全員中国人。が、軽妙で実によい。
圧倒的なのは、ヴァランシエンヌのマリア・ムドリャクで、ほとんどチートのような脚線美は持っているわ、歌はうまいわ、顔は小顔美人だわで、ヴァランシエンヌ以上のヴァランシエンヌで、なるほどこれなら大使に離婚されても超余裕でマキシムのナンバー1になれるだろうという歌手だった。
ダニロは目つきの悪い短髪金髪男なのだが歌も演技も抜群、ハハンナも実にうまい。ヴィリの歌はそれにしても名曲だ(唐突に1曲やたらめったらと美しい曲がその瞬間だけ(モチーフの再利用とかほとんどなく)という点ではルサルカの月への祈りと良い勝負と思う)。
が、子供に言われてみて、四阿のシーンの直前のカミーユとヴァランシエンヌのシーンもすばらしいな(というか、こうもりにも役に立たないが美声を轟かせるテノール歌手が出てくるので、オペレッタのパターンのような気もする反面、薔薇の騎士にも唐突に美声を轟かせるテノール歌手が出てくるから(そういえばパヴァロッティにこの役を割り当てたレコードがあったが、こんなの舞台では無理だろう)、ウィーン風の作劇術なのかも知れない)。
新国立劇場と同じで、主演クラスは海外招聘で残りは母国で固めるというシステムのようだ。(が、カンカンを踊るマキシムの踊り子たちは西欧人のように見える)
とても良かった。
が、客席は1/4程度の入りで、平日の夜というのをさっぴいても実にもったいない。
新国立劇場でボリス・ゴドゥノフ。歴史は知っていてもこのオペラ自体は初めて。かつムソルグスキーは他人が編曲した曲以外はおそらく聴いたことがないので楽しみ。
演出は、終演後のツアーでの説明によれば、ボリス・ゴドゥノフの心象風景を舞台にしたものらしい。とするとキューブ(と呼ぶらしい)での息子の世話をする自分というのがいかに重要なことか。
カーテンコールがほとんどを男性が占めるのが壮観だった。もともと女性が全然出てこなくて劇場に難色を示されたので、あとから娘のシーンを取って付けたというようなことがプログラムに書いてあったが、納得感がある。
とはいえ、その娘を含む三重唱が曲全体の中では出色の美しさなのだが。
オーケストレーションは弦ばかりで、この人は特に金管を使えないのか? と聴きながら思う。というか、誰でもそう考えた結果が禿山の一夜のリムスキーコルサコフになるわけか。
で、全体としてはもうほとんど現代歌劇も良いところなのだ。とにかくメロディーが無い。おそらくディクテーションから曲を作ったのではないか? したがって、もう少し歩を未来へ進めればシュピレッヒシュティンメになってしまいそうだ。
というわけで、退屈は退屈なのだが(台詞重視と考えられる以上は台詞を左右の字幕で見るわけだが、その分、舞台上の動きを見られなくなり、しかし音は比較的単調(したがって、歌手の能力がものを言うわけなのだろう))、歌手は全員よくぞ揃えたりといわんばかりの圧倒性がある。
特に歴史修正主義者の大司教の歌手(ゴデルジ・ジャネリーゼ)が凄まじい。あまりの音量と深い響きで修正した手前勝手な歴史観に、ドミトリーの死を目撃したシュイスキー(丞相格の貴族)もボリスも思わずボリス自身が皇子を殺害したかのような気分にさせられてしまうし、最初の登場時には偽ドミトリーが自分がドミトリーだと信じ込んでしまうのも無理はない。
ボリス自身は最高権力にあって人民のために尽くそうとするのだが、脚を引っ張りまくる世襲貴族官僚群、思いもよらぬ天変地異(かくして飢饉発生)など、呪われているかのように運も立場も悪い。
その「呪われている」かのような雰囲気を歴史修正主義者が突いてくるのだから、脆弱な権力基盤しかないボリス政権がぐらつくのは当然のことだった。
かくして歴史修正主義者と天変地異を呪いのせいだと信じ込んだ大衆に支えられて権力を簒奪しに隣国の力を(大衆にはわからないように)借りて進軍してくる偽ドミトリーが「ロシアを取り戻す!」と歌いまくるのも当然至極かも知れない。当然のように権力は偽ドミトリーへ移動し、ロシアの悲劇は続くのだ、と歌われてお終い。
というわけで、プーチン批判の演出のつもりだったのかも知れないが、どう解釈しても民主党政権から安倍長期政権(まさか、統一教会に人材的にも金銭的にも支えられていたとは考えもしないポーランド)への簒奪劇のように見えるわけだ。野田はシュイスキーだな。
東劇でメトライブビューイングのメデア。
オペラ自体が初見。ケルビーニという古典派とロマン派の端境期の作家の作品らしい。
確かに弦の合奏でモーツァルト風なところと管を混ぜた表現的な要素がある。が、オーケストレーションよりも、歌唱がロマン派に近い(というよりも、ほとんど後期ロマン派に進んでいる)。
内容は、アルゴ号の旅を終えて金の羊毛とともにコリントへ帰還したイヤーソン(作品内ではジャゾーネ)が王女グラウケと結婚しようと画策したことに憤激したメデア(アフロディテの陰謀によりイヤーソンに一目惚れした弱みにつけこまれて国宝の金の羊毛をイヤーソンへ与え、さらには国を捨て実の弟を惨殺するほどイヤーソンに尽くしまくるのだが、この時点ではやり口のひどさによって(しかし他に手段がないだけにイヤーソンの卑劣っぷりには観ていて腹が立つ)完全に憎まれている)が、猛毒の衣装でグラウケと王を暗殺し、さらにジャゾーネとの間に生まれた二人の息子と無理心中するという悲劇(作者のエウリペデスは前後をぶった切っているので経緯がわかりにくいが、当時のギリシャ人には全然問題なかったことは疑いようがない)。
知らなかったが、ノルマ同様にカラスがこの作品は私にしかできないじゃんと見つけてきたらしい。
それをさらにメトに私しかできないからやりたいとソンドラ・ラドヴァノフスキーがゲルブに持ち掛けたらしい。持ち掛けただけあってとんでもない表現だった。
が、1幕(背景説明でイヤーソンはコリント王に取り入りグラウケも英雄との結婚に胸躍らせているところに、怒り狂ったメデアが出てくるが、大衆はメデアをリンチにかけようと王宮を取り囲むというだけで、別にメデアの歌手って大変か? と思わざるを得ない。むしろイヤーソンのポレンザーニが暗くて実はイケメンのポレンザーニ(愛の妙薬でのぽよぽよ小太りで愛想の良いポレンザーニという別歌手が同一人物に存在する稀有の歌手で、ここでも自分勝手な英雄を好演している。声も抜群)の好演が目立つ。
2幕はほとんどグラウケの独唱。メデア役よりも、よっぽどグラウケ(作品ではグラウチェ)役のほうが大変なんじゃないか? と思う。グラウチェのジャナイ・ブルーガーも良い歌手だ。
この幕は比較的クラシック色が強くて、モーツァルトっぽいなぁと感じるところも多々ある。一方でメデアを含めた重唱でそれぞれが自分勝手な思いを歌いまくるところは、ヴェルディの先取りっぽくもある。
幕間インタビュー(インタビュアーはディドナート)でポレンザーニが得意(前回もあった)の「ネタバレになるから言わないけど」を言い出してちょっとおもしろい。もちろん、オペラは1回の体験ではなく、しかも誰もが知っているギリシャ神話なので、多少変えているとはいえ(元の神話ではメデアは無理心中――自分も死ぬ――はしないでその後も彷徨う)ネタバレもへったくれもあるわけないのをわかって言っているのだろう。
指揮のカルロリッツィはいろいろ言いたいことがありそうだったがマエストロコールのせいでインタビューを中断して去る。こういうタイミングは初めて見た。
で、三幕でびっくり。ほとんど最初から最後までメデアがあらゆる感情を次々と変えながら歌いっぱなしだ。これは恐るべきオペラじゃないか。なるほどカラスが持ってくるはずだし、ラドヴァノフスキーが挑戦したがったはずだし、通常の演目からは外れるわけだ。歌唱力表現力以前に体力が必要だ。
あまりにコンディションの調整が大変なのか、幕間インタビューにラドヴァノフスキーがほとんど出てこなくてビデオで紹介しているわけだ。体力作りのトレーニング風景などをやった。それにしてもカラスが40代で舞台から引退した(させられた説もあるが)のに対して、50代(と言っていたような)で堂々たるメデアっぷりを示せるのだから現代の健康術が凄いのか、ラドヴァノフスキーが凄いのか(それは当然そうなのだが)、いろいろ考えてしまう。
実に「恐るべき悲劇」を絵にかいたような作品だった。それにしても三幕は凄まじかった。
マクヴィカーの演出は、血生臭いマクヴィカー(他にもポップなマクヴィカーやエロいマクヴィカーが存在する)爆発でこれも良かった。
カラスが歌手引退後にパゾリーニに誘われて映画で王女メディアに出たのは、パゾリーニが「カラスを引っ張り出せば売れるだろう。引っ張り出すには『メデア』をやりませんか? でOKだろう」と考えたんじゃないかとか思った。
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(未見。正確には金曜ロードショーか日曜ロードショーで、5分くらい見た記憶はある。崖の上にカラフルな衣装か仮面かメークの人がいたような)
終わった後、銀座の三越まで歩いて弁松の赤飯弁当を買って帰る。弁松の弁当は色味が最低(ほとんど灰茶色)だし味もしょっぱい(栗きんとんの甘さが引き立つ)が、これこそお江戸の弁当という感じで好きだ。
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