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日々の破片

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2010-03-20

_ 楽聖

ノックの音がした。

ルートヴィッヒが次のコンサートのためのオリジナル曲に頭を悩めているときだった。

「メルツェル君か?」といつもの陽気な調子で(そう、彼は大方のイメージと異なり、実に気さくでご機嫌なやつだった)声をかけた。とはいえ、最近では耳の調子が悪いので、何か聞こえたようだが、良くわからなかった。

面倒なので続けて言った。

「鍵は開いてるぜ。入ってこいよ」

するとぽこぽーんと音がして、茶色い小さいなにかが入ってきた。

「誰だい、君は?」

ルートヴィッヒが目をまるくすると、相手も負けずと目を丸くした。

セロひきのゴーシュ-宮沢賢治童話集4-(新装版) (講談社青い鳥文庫)(宮沢 賢治)

「楽聖のおっさん、おいらはタヌキの子供だい、ぽこぽーん。おじさんがどんな病気でも治すと聞きつけてはるばる東の島国からやってきたんだぞ、ぽこぽーん」

「はて、おれは医者じゃないし、この頃はまだ樂聖なんてすごい呼ばれ方はしてないはずだが」

「樂聖じゃないやい、楽聖だい!」

と、タヌキの子供はばちを振り上げて文句を言った。

「まあ、いいや。で、おれがどうやって君のことを治すのか?」

「もちろん、音楽に決まってんだろ。ネコもコリスもクマさんも、森の音楽家はみんな、おじさんの家の煙突から忍び込んでピアノの音を聞いて治すんだぞ。知らなかったのか、えっへん」

「なんか、良くわからないが、頭のお医者に行ったらどうだ?」

と、つい胡椒のきいた料理を出すルートヴィッヒ。

「そういうのはカイン・スターリンに任せときなよ、おっさんのガラじゃないぞ、ぽこぽーん。というわけでお腹が痛くて死にそうなんだ。さっさと聞かせろ」

「ひでぇ言いようだが、見れば子供のうえにケモノみたいだからしょうがねぇな。まあいいか」

そこでルートヴィッヒはピアノの前に腰掛けると、しかかり中の交響曲の第1楽章、第1主題を弾きだした。

ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱーぱぱーぱぱぱん、ぱぱぱぱんぱんぱんぱんぱー

「やめてくれよ、おっさん、却って痛くなってきたよ」

「うむ、実はおれもそう思ってた」

と、図星をさされてルートヴィッヒはあわてて2楽章のほうに切り替えた。

パッパパパパパパパパパパ、パパパパパパパパパン、わりとノリノリだ。

「うーん、おっさん、悪かぁないがよくもない。それに病気の子供にはテンポが速すぎる」

「まあ、リズム楽章だしな。では、とっておきのスィートでメローなパラダイスに招待してやろう」

と、3楽章。

ぱーぱーぱーぱーぱーぱーぱー

「ぐがー」

子ダヌキはいびきをかいて寝てしまった。

「まあ、寝ればたいていの病気は治るから良しとするか」

ルートヴィッヒは一人合点すると、ピアノから離れた。すると、子ダヌキ、目をぱちっと開いて、キーキー声で文句をたれた。

「だめだい、おっさん。眠くなるだけでおなかが痛いのはまったくもって帆立貝だ。」

「うむ……」

ルートヴィッヒは困った。実は彼はこのあとをどうすればよいか、見当もついていなかったのだ。

「おじさま、お願いですよ。おなかが痛くて死にそうなんですよ」

と、子だぬきは余程具合が悪いのか態度をあらためて懇願する。

どうにかしてやりたいなぁと苦悩しながら(おかげで眉間に皺が出るようになったのは秘密だ)、窓をふと見ると、空は青く、白は雲い。抜けるような美しさに心は踊り、しかし目の前で病苦にあえぐ子ダヌキの腹鼓を聴かされると、どうにかしてやりたい。なんの勘違いか自分を樂聖とまで言ってくれたし、しかも心の底から、このおれに人生の痛苦から解放させる力があると信じ込んでいるではないか。

そのとき、自然と歌が出た。

フロード、フロード、

「はい? 僕は友達ですか?」

と、子ダヌキが顔を上げると、そこに見たのは、ルートヴィッヒがシラーの詩に即興のメロディーをつけてラップする姿だった。

うーれしーな、神様たちが花火をばんばんやってるぜ。

火事だ火事だ、魔力を集めて立ち向かえ、そら、四方の海から乞食王子がやってくる、おれたちブラザー、翼にのって、全世界に10の投げキッス!

「おっさん、、おいら治った」

子ダヌキは失われていたパワーが全身を駆け巡る衝撃にぽんぽこしながら、バチを背中から取り出すと、勢い良く太鼓を叩いた。

このジャムセッションの録音が残っていないのはかえすがえすも残念だが、この後ルートヴィッヒは子ダヌキに否定された3つの楽章を前座にした合唱つきの交響曲をまとめ、その音楽は年末になると今は亡き子ダヌキに対する哀悼のためか、日本中で鳴り響くのであった。

ベートーヴェン:交響曲第9番(アバド(クラウディオ))

(アバードにもオリジナルを聴かせてやりたいよ)


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