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日々の破片

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2015-10-13

_ ここは退屈迎えに来てを読んだ(感嘆)

数年前に話題になっていた、ここは退屈迎えに来てがアマゾンKindleショップでえらく安く売られていたので、たまには最近の日本の小説でも読んでみようかと(藤井大洋とかは読んでいるから、たまにはというのとはちょっと違うかな。ノンジャンル小説でもというか)買って読んだら、えらくおもしろかった。

正確にはおもしろかったというのとは違うが、信じられないほどまともな文学作品で、いろいろ感じるところ多数。

文学とは何だろうか? おれは次の2点を満たすことが条件だと考える。

・相対的な観点から世界を構築し、それがまさに現実の世界の写像であること

・その世界を読者が自覚し、現実の世界に対する複眼的な視野が一瞬であろうとも提供されること

たとえばソフォクレスやエウリピデスのような正統的なギリシャ悲劇を考えてみると、そこに描かれるのは主に、神が定めた運命に対して立ち向かう人間で、その戦いが失敗することで生じる結末だ。立ち向かう意思を持つということは、運命(神の意志)というものは絶対的なものではないという自覚であり、その自覚は読者に対しても要求される。したがってギリシャ悲劇は文学なのだ。

定義から、神がきちんと収めたことになっている世界では文学は生まれることはない。

フランス文学がまっとうに成立したのは、サド侯爵が神を全否定して善と悪を相対化し、神の代わりに自覚した人間が自覚せざる人間に君臨する作品を書くようになってからだ(と抽出すると確かに危険思想以外の何ものでもない)。

以降、神という絶対者を相対化した世界(現実としては神によって権威づけられた王というものを否定した世界)では文学はテーマを持ちやすくなり、最終的にはカミュが絶対的な価値観を人間存在そのものを理由に否定することで、完成する。その後は、物語をどう解体するかが重要となる。

ここは退屈迎えに来ての連作は、物語が解体されているわけでも、実験が行われているわけでもない。淡々と1990年代と2000年代の2つの時代を象徴する固有名詞を散りばめて(日本では田中康夫、フランスではパトリック・ベッソンあたりの方法論)、しかも巻末の参考文献に『ファスト風土化する日本』が出ているくらいに再構築された地方都市での生活を各篇ごとの女性主人公の主観表現で描いたものだ。

2010年には30歳くらいになる椎名という男が(まったく主役ではなく)連作をつなぐキーとして出てくる。小学生のころ、高校生のころ、働きはじめたころ、その場所に溶け込んだころ。

各作品の主人公は椎名の年齢に応じて変化する。最初の作品が大学卒業後東京で働き、結局戻って来た30がらみの女性(この冒頭の作品が一番軽やかなのは多少なりとも東京が描写されているからだろう)、次が超美少女で東京でハイティーンモデルとして活躍してその後目が出ず出戻って来たスタバ店員と同じ店員仲間のサブカル女子(20代中半上)の友情、地方大学院で研究者としての将来に悩んでいる女性(20代中半下)の失恋、バイト女性(20代最初)が重力を自覚する話(悪くない)、アメリカ留学生とだけ仲が良い地方大学生(20くらい)の艶笑小話、東京で一人暮らしをはじめて本当の自分を見つけたのか見失ったのか混乱する20歳大学生の勘違い(冒頭の作品へ続く雰囲気)、援交女子高生が愛とは何かを理解する話(妙だ)、セックスしたくてたまらないまま本当に夢を見てしまうことになった高校1年生の奇譚(ではない)とばらばらで、つまり2000年代後半から1990年代前半へ向けて時代がさかのぼる。

ところが驚くことに、全然さかのぼらない。確かに風景と事物は変わっていくし、登場人物の年齢も行動も移り変わるのだが、おそろしいほど何も変わらない。というのは、そこには何もないからだ。あるのは心象風景のみ。そしてそれは普遍的なものだ(が、それでいて時代は確実に遡る)。

最初の作品を呼んで唖然とした。

東京に来てうまく行かずに故郷に戻って退屈だと文句を垂れながら東京に生きている人たちを羨みながら生きている人たちの物語で、そこにはおれが共感できる何ものも存在しない。

にも関わらず読みながら、ロンドンに行って日本にいるときとかわらず下宿屋で机に向かっているだけの夏目金之助や、パリに行って日本にいるときとかわらずに何もしない辻潤を考える。彼らは、作品中の登場人物が羨む東京に生まれてしかし外国というものに憧れて、実際に行ってみて、そして戻って来る。

場所が変わっても何も変わらない。地球から火星に行っても同じことだろう。

これがとびきりおもしろく感じた。

逆転するのだが、文学作品を書く側も読む側も、どこにいても落ち着かなく、足が地に付かず、しかもそれがわかっている。その了解は、世界認識の相対性となる。相対性を認識するには、立ち位置は常にずれる。そのずれを意識することが自己認識となる。そしてこの作品群はその自己認識を持つ瞬間を切り取る。

ということは、この作品は文学、それも相当にストレートな純文学なのだ。そうだったのか(知らずに読みはじめたのだ)。

特に冒頭の作品はもっとも構造があらわで筆者の意図(それが自覚的なものであれ無自覚のものであれ、マーケティング的なものであれ、真情であれ、締め切りのためであれなんでも良いが、国語の試験で問われたときに回答すべき意味での意図)がきちんと提示される。そして以降の作品は異なるインスタンスがすべて共通であるという個別論となる。巧妙だ。

ここは退屈迎えに来て(山内マリコ)

文学なんて20世紀で死んだと思っていたが、全然、そんなことないのだなと認識を新たにした。


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