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新国立劇場でウィリアムテル。
それにしても、ロッシーニ(イタリア人)がフランスのグランオペラとして作った(で、上演はフランス語版)だからギヨームテルだし、ロッシーニを重視するならグリエルモテルだし、原作のシラーを重視するならウィルヘルムテルだし、どうして英語っぽいウィリアムテルになるのかは恐ろしく謎だ。
指揮は大野だが、序曲(シンフォニア)は本当に素晴らしかった。特に嵐が過ぎ去って夜明け(かな?)の美しさに続く(多分)狩りに駆けるまでの静と動の対比とか、これまで聴いたことがあるどのウィリアムテル序曲よりもおもしろかった。
あまりにも序曲が素晴らしいので、続く1幕はちょっとだらだらしているように感じた。
しかし2幕は別物だ。暗い森に赤いドレスの皇女が歌う情景の美しさ、それに続いてアルノルトの独唱、続いてテルが出てきての内乱(叛乱)の謀議と実に良い。
ところどころ、おれはロッシーニを聴いているのかヴェルディを聴いているのか、とわからなくなるくらい、この作品でのロッシーニは完全に古典派ではなくロマン派になっている。というか、初~中期のヴェルディはロッシーニの影響下にあるとしか思えない。そうだったのか(ロッシーニはこれまでセヴィリアの理髪師、チェネレントラやランスへの旅しか聴いていなかったので古典派+ベルカントという印象しかなかった)。
3幕はリンゴ、4幕はテルのテロルによる(オペラでは台詞で終わるが、実際は叛乱軍が砦を陥落させたことが大きいはずではある)人民の勝利となる(皇女は一体どうなるのだろう?)が、このあたりはどうにも淡々と物語に合わせて音楽が進むので全然印象に残らなかった。多分、そのあたりにロッシーニが筆を折る原因もあるのではなかろうか?
それにしても、シラーの原作の最大の見せ場の部族会議もなければ(牧師の「奴隷となって生きるよりはむしろ死を欲する」に似たようなセリフはあったような気はする)最後のベルタとルーデンツの自由宣言もない(ベルタの「自由なスイスの女が自由なスイスの男にです」という条件を結婚に対して付け加えているのがとても良いシラー)くらいに、シラーの原作からは変えているのには驚いた。そもそも主役はルーデンツなのに、アルノルト(男爵とルーデンツの親子関係を、庄屋と息子に置き換えているとも言える)とテルに変わっているし、ベルタ(謎の高貴な女性だがハプスブルクは関係ないと思う)ではなく皇女になっている。要はウィリアムテルというタイトルロールを主役にしたかったのだろう。
(1829年のフランスは王政復古の超暗黒時代だから、自由を希求する農民革命の元のシナリオだと検閲を通らないことを見越して改変した可能性があることに今気づいた)
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