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日々の破片

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2021-05-02

_ 三色菫・溺死

神保町をぶらぶらしていたら、店頭に薄い文庫本を20冊くらい並べている店があって、ふと眺めると、シュトルムの三色菫・溺死というのが目についた。

シュトルム=みずうみと文学史上の一言知識はあるが、それ以上ではないので、これだけ薄いのであればすぐ読めそうだし読んでみるかと手に取って、裏表紙をめくれば鉛筆で100円とまっとうな値段が書いてあるので、そのまま買って帰った。で、読んだ。

1980年代の22刷なので、当然のように舊仮名舊漢字は良いとして、選ばれた言葉が美しくてまずそこに驚いた。

で、翻訳者を見ると伊藤武雄とあるが、考えればドイツ文学はそれほどは読んでいないので知らない。知らないので検索すると情報が出ない。やっとウィキペディアに出ているところにたどり着いたら、さらに(ドイツ文学の訳業を持つ伊藤武雄は二人存在する)があっておもしろく思った。

とりあえず冒頭の三色菫を読み始めると、母親を亡くした娘、その父親、父親の再婚相手(登場時点ではまだ再婚していない)の物語が始まる(というと作品としては正しくなく、最初の数ページにわたって、舞台となる家とその複数ある庭、樹木、内装などがことこまかにカメラが入って這い回る。オーソン・ウェルズの作品を思わせる。で、そのような描写がまさに伊藤武雄の面目躍如なのではないか? とにかく永遠のように美しいのだ)。

それにしてもさまざまな植物は登場すれども三色菫は出てこないな、と思いながら最後のページにくると、訳注として継母の縮小形を付けると三色菫となる、とあって、なるほどと思う。さらに、三者三様の細かな心理が描かれている点も三色菫なのかも知れない。

佳品だった。

で、続く溺死を読み始めると、うってかわって読みにくい。

あまりに沈鬱なのだ。

子供の頃に訪れた友人の家(それは教会の牧師館である)、その教会、庭、通学路、そういった描写の中に教会に架けられた陰気な牧師の肖像画と溺死した子供の2つの絵画に惹かれたことが示される。いずれも優れた作品だが、由来がわからない。画にはC.P.A.S.と記されている。A.S.は溺死として、C.P.が謎なのだ、と牧師が教える。それは父親故にでは? いや、そのようなわけはなかろう。と会話する。

成長して町の商家を間借りするために見学に入った部屋で同じ画家の異なる作品を見出す。家主に聞くと遠い先祖の画業だと言われ、その人の画材を見せられる。そこに入っていた2つの手稿を読み始めて、画に記されたC.P.A.S.が解き明かされる。

17世紀、魔女の火炙り、貴族と平民の身分差、先進国としてのネーデルランドの画家たちといった要素を散りばめた物語が画家の筆によって語られる。

もちろん、既に題名からも冒頭の画からも、子供は溺死することは明らかで、そこには何の謎もないわけだが、にもかかわらず、三色菫とは変わって徹底的に画家の一人称で描かれているため、他人が何を考えているのか、本人不在のところでどのような経緯があったのかは最後まで明確とはされない。

代わりに景観の緻密な描写がある(それが三色菫――こちらも祖母の庭と呼ばれる場所については謎めきが多いのだが――の開放的な美しさとは異なり、森の沈鬱を通奏低音として全体を貫いている。時々聞こえる鶯の声が美しい)。

一方で、修道尼院からの手紙を隠し持ったまま酒場を訪れたことによって領主の息子との一触即発の危機からの脱出、森での猛犬との追走劇(あいまに挟まる夜鳴き鶯の声)から危険な樹木を登ってからの朝に至るまでのスリルとサスペンスがもたらす娯楽性がある。硬質な文体を保ったままの息もつかせぬ娯楽性というと、同じ地方出身のドライヤーを思い出さずにはいられない。

一時代を築いた作家の作品だけに確かに読む価値はあったし、デンマーク生まれなのにドイツ文学者というシュトルムの微妙な歴史的かつ地理的な位置づけが反映されているようで興味深くもあり、何よりも伊藤武雄の文章の彫琢に感嘆した。

三色菫・溺死 (岩波文庫)(シュトルム)


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